ブックタイトル富士道を歩く会 2012~2014の旅録

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富士道を歩く会 2012~2014の旅録

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富士道を歩く会 2012~2014の旅録

らいの率があったの?河野3分の1かな、飼ってるうちが。武井飼ってないうちはそれは借りるわけ?河野結ゆいや手て間ま替がえでね。手間替えできない人は、お金出さないといけないけどね。馬をうんと飼っても、餌の問題があるでしょ。餌がないと飼えない。今みたいに輸入でどんどん入ってくる時代じゃない。量的に飼えない。小さい農家は飼えないから、手間替えとか金銭でお願いする。手間替えとは、作業などに出役して労働を貸し借りすることです。おもに田植えや稲刈り、屋根の吹き替えや木の伐り出しなど、人手が要る作業で手間替えがおこなわれました。小さな農家はそうしてやっと馬を手配することができたのです。昔はどこの家庭でも馬を飼育していたのかと思いきや、じつはそうでなかったようです。武井昔から農業やるには山が必要なんだよね。山がないと農業が成り立たなかったんだよね。なかには禾か生せい村むらの古ふる川かわ渡どなんかは、山がないからよその山を借りるわけ。それを入会権というんだよね。河野古川渡の場合は、九く鬼き山に入いり会あい権けんを持ってる。そこから柴刈りしたり、あるいは材木売ったり。分収林っていってね。内藤けっこう山に生活を依存することになったでしょう。焼き畑をやったり、炭焼きを職業にして。東桂の鹿しし留どめとか、盛もり里さととか、文ぶん大だい(都留文科大学)の附属小のあたり、炭焼きが多かった。山林は日々の生活に直結する大きな存在でした。薪や材木のみならず、田畑に入れる肥料も山から調達したのです。ここでは具体的に焼き畑や炭焼きという話も出てきました。話題はそこから戦前時中の経験談へと変わってゆきます。武井4貫目、僕ら学生の頃は、道どう志しで焼いた炭を道志から都留へ運搬みんなに見てもらいたいものが、たくさんあるんだけども、時間が足りないよね――。しないといけなかった。馬でも引いたし、けどあの頃は交通がなくて、学生が勤労奉仕したんだ。(道志村の)川かわらはた原畑ってところに昔小学校があって、そこにみんな焼いた炭が集結しているわけ。それを学生を使って、1日一人ノルマ3俵なんだよ。編集部1往復で3俵も!?武井3俵なんて背負えないよ。あれ4貫目だから、3俵っていったら、12貫目。山をのぼらないと行けないでしょう。だから、川原畑の小学校へ行って、みんな学生が背負子しょってくわけよ。それに力あるやつは2俵背負うやつがいるんだよ。で、峠にのぼってトンネルをくぐって、谷村側の入り口へ2俵おきなさいって。3俵目は、背負ったまま菅野に農林省が管轄していた木炭倉庫があって、そこに持って行きなさいと。それを持って行けば、ノルマ完了。帰ってよろしいと。僕なんか身体弱かったから、1俵背負うとへろへろしててね。大変だったんだよ。編集部武井さんが何歳のころですか?歩く会を振り返る49富士道を歩く会